2013年3月11日月曜日

Don't forget 3.11

こんばんは!

今日は本当なら週末のことを書きたかったんですが、どうしても書かなければいけないことがあるんで週末のことは次回書きます!


2011年3月11日金曜日

東日本大震災

午後2時46分 大地震発生

その数時間後 津波が東北を飲み込みました。


知ってる人がほとんどと思いますが、僕はそのとき一人で仙台に住んでいました。
仕事中に地震が起き、電柱が折れ、地面が割れた道を家まで歩いて帰りました。
なんとか友達何人かと母ちゃんにだけ電話が繋がり、その数分後には電波が無くなり、停電の中で充電が切れました。
そんな中で必死に連絡を取ろうとしてくれた兄には本当に心配かけました。
もう少し仕事場が海よりだったら津波が来てたぐらいの場所でした。

家に帰る途中のスーパーやコンビニはすでに人だかりになっていて、食べるものはほとんど売り切れ、夜には店は閉まっていました。
お金なんかなんの意味もない世界を知りました。
なにも情報が無い僕は車で走れば停電してないところに行けるだろうと思い、大渋滞の国道を走らせました。
でも、ラジオから聞こえたのは
「東北6県全滅」
大渋滞をUターンして帰るしかありませんでした。
その日に食べるものはその日に買う生活だったので、家には何もない。
腹が減りすぎてふりかけを舐めて真っ暗な夜を家で過ごしました。
それからは夜は何日か小学校の体育館で過ごしました。と言っても人が多すぎて寝る場所はもう無いのでパイプイスで寝てたんですが、寒さと赤ちゃんの鳴き声、おっさんの怒る声などで疲れてきたんで深夜の3時くらいに家に帰りダウンジャケット着て寝ました。

そんな中でも、一人でイスに座って寝てる僕に支給されてるケーキを分けてくれるおばさんや、スーパーに何時間も並んでる時に前にいた子供連れの母親から「頑張りましょう」という言葉は本当に温かかったです。

体育館でやっと横になれた時に僕は絵を描いてました。まぁ、横になれただけで下は木やし毛布なんかもない。
目をつむっては起きてを繰り返してる間に描いた絵は、今よりもクオリティーは低いけど、自分の感情の全てが鉛筆で紙に流されました。

絵だけが僕の救いでした。


何日かして電気が復旧した時、部屋に座り込んで友達や親、そして兄に電話しまくりました。
結局僕は孤独から逃げて関西に帰ってきました。
それから僕は今までよりさらにいろんな所に行こうと決めました。
友達がいることの有り難さをさらに感じました。

自分の人生は
友達がいるから歩いていけるんだと
そう思いました。

この歳になっても、遊びに誘うと必ず来てくれるやつがいる。
暇だから来るんじゃない。
わざわざ予定を合わせてくれるやつがいる。他をキャンセルして来てくれるやつがいる。

これは本当に幸せなことです。

みんなと未来を歩いていたい。

みんなとずっと生きていきたい。

本当にダメなことですが、東日本大震災で亡くなったひとの数を覚えていません。
パッと覚えられないぐらいの数のひとが亡くなりました。

人生で忘れることのない出来事です。
僕らがしなければいけないことは、これから自分の街で大震災が起きたときどんな対応をするかを考えること。
大震災が起きても一人の犠牲者も出さないこと。
そうしないとなんの意味もないと思います。
東日本大震災が教えてくれたこと。
無駄に過ごすわけにはいけない。






この出来事の全てを忘れずに
共に生きて行こう

共に夢を見よう

僕らは本当のファミリーになれるはず


あなたに出会えて今があること


本当にありがとう









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